昔BCLを始めた時に使ったリグはナショナルのRQ-448というラジカセであった。これは別に自分が選んだのではなく父親が買ったものである。父親は恐らく短波がついているなどということは、一切意識しなかったであろう。それを私がたまたま子供の科学にあった「ラジオを聞いてカードをもらおう」を見て試しに聞いているうちに、偶然北京放送を受信したことでBCLが始まったということは随想「出会い」でも触れた。

このラジオで日本語放送は大体受信した。しかしこれはラジカセに短波がついていたに過ぎず、周波数は大雑把にしか分からないし、受信周波数帯も3.9~12MHzしかなかったので、19mb以上を聞くことが出来ず段々物足りなくなってきた。そんな時我が家が洪水の被害に遭うというアクシデントがあり、1FにあったRQ-448は哀れ水害の犠牲となってしまった(命日、1976年9月9日)。

したがって改めて親にねだってラジオを買ってもらうことになるが、そのときは上記のような点を考慮して機種選定に入った。候補としてはソニースカイセンサー5900、ナショナルクーガー2200、クーガー115の3機種に絞られた。5900はクリスタルマーカーや10KHz直読を目玉にしたBCL界を揺るがす話題の人気機種であった。2200は5900に遅れること8ヵ月後の76年6月に発売された、「直ダイメカ」をウリにしたこれまた5900と人気を二分する名機であった。115は周波数直読が出来る機種ではないが、シルバーボディのあのデザインが気に入って候補に挙げたのである。

先ず見栄えは良くても直読の出来ない115は、最初に候補から脱落した。そして5900と2200の一騎打ちになる。私にはこの2つの機種の性能に根本的な違いを感じなかった。BCLをやるに当たっては全く互角であると感じた。デザイン的には2200の方が気に入っていたし、また当時の2200の周辺機器のラインナップ(カップラーとかアンテナとか)にも非常に引かれた。しかし実際にはそんなにむやみやたらにねだる訳にも行かないし、何より互角だと思っているのに定価が7,000円高いのは小学生にとっては致命的であった。かくして次期戦闘機はスカイセンサー5900に決定した。

5900は76年12月~78年12月の約2年間、メインで働いてくれた。小学校6年生から中学校2年生までという最も時間が取りやすい時期に夢中になって聞きまくり、このリグで130局余りを受信した。国際放送の大半は聞いたし、南米やアフリカのDX入門局もこのリグで受信した。

今度は次のステージとしてよりディープなDX局を狙うというお決まりのパターンに入っていくのだが、そのレベルに行くと5900はちと苦しい。混信も増えるので選択度も良くなくてはダメだし、またトロピカルバンド(90mb以下)も受信できなくてはならない。そこでまた次期戦闘機の選定に入るわけである。

次はDXをやるためにも当然のことながら通信型受信機をターゲットとした。このときは事実上YAESU FRG-7、TRIO R-300の一騎打ちであった。通信型受信機と言えば価格も相当高く、おいそれと買えるものではない。中学生が親にねだって買ってもらえるとすれば、選択肢は自ずと限られる。要は1978年12月当時に手が届く通信型受信機は、上記2機種しかなかったということである(そういえばDRAKEのSSR-1もあったが、これには何故か全く食指が働かなかった。多分雑誌等での評価が低かったためと思われる。)。デザイン的にはR-300の方が気に入っていた。しかし世間での評価は圧倒的にFRG-7の方が高く、実際にR-300は周波数の直読性も乏しかった。そういう意味ではFRG-7になるべくしてなったのである。

FRG-7は1979年1月~中断する1983年1月(実質的には1980年4月)までの間メインで使用した。この間当初の期待通りに、DXに大活躍した。5900と違って重くどっしりしていて、ダイヤルのチューンも重厚感があり「ラジオ」と「受信機」の違いを感じた。特にインドネシアを聞きまくり、大いに楽しんだ。

しかし通信型とは言ってもエントリーレベルのマシンであり、当時多くのトップDxerが愛用していたYAESU FR-101や日本無線NRD-505とかと比べると選択度も多信号特性も格段に低いことは段々分かってきた。そしてその中で少なくとも選択度に関しては、少々の費用と簡単な工作で改良できることが分かり、西東京ミーティングでOMさんのご指導を仰ぎ、見事Narrow化することが出来た。この改造により、中断前の後期には混信の中から南米局もそれなりに受信できるようになり大いに成果を上げたのである。

To be continued・・・