最盛期
そしてそのアクティビティは中学2年の大晦日に、FRG-7を父親にせがんで買ってもらったことにより一気にブレイクする。いわゆる通信型受信機を使用したことで、DXの分野に踏み出して行くことになるのである。もちろんFRG-7で受信できて5900では絶対受信できないのかというと必ずしもそうではなかったと思う。しかし「BCLラジオではなく通信型受信機」という事実自体が、自分もいわゆるDxerと対等であると感じられて何かものすごい飛躍をもたらしてくれそうな気持ちにさせたのも事実である(もちろんFRG-7自体は通信型受信機とは言ってもエントリーレベルのマシンに過ぎないことは理解していたが)。いずれにしてもこれまで5900では聞けなかった90mb以下を聞いたり、またアンテナも竹竿のマストを立ててロングワイヤーを張ったのはFRG-7以降のことだったように思う。
そんなこんなで、中学2年~3年にかけてアクティビティはピークに達した。BCL連盟のミーティングにも顔を出したし(町田。一度など西東京まで出かけた)、またFRG-7も選択度を改善するということでNarrowFilterを追加したり、また短波に投稿して掲載されたりと本当にのめりこんでいた。
あっけない幕切れ
そんなペースがこれからも続いていくのか・・・と思っていたら、QRTは意外とあっけなくやって来た。最大の原因は高校への進学である。中学まで自転車で15分ほどで通っていた頃はワッチする時間も結構取れたのだが、1時間以上かけて通学するようになりまず物理的に時間が減ってしまった。しかし何よりもアクティビティを下げたのは「更に大学進学を目指すのだからラジオなんか聞いてちゃいけない」という焦りによるものが大きかったように思う。またちょうど自分が高校に入学した80年ごろからBCLブーム自体にも陰りが見え、トレンディな趣味ではなくなってしまったことも遠因かも知れない。FRG- 7の限界を超えられない(49mbとかでのラジオたんぱのゴーストとか)と感じ、受信機を替えなければこれ以上の飛躍は無理-だけどそんなもの買えない・・・等々さまざまな要因があったと思うのだが、80年4月には実質的なBCL活動を中止してしまう(実際の最後の受信は83年1月のKYOI)。そしてその後20年間5900もFRG-7も押入れに押し込まれ、陽の目を見ない日々に突入してしまうのである。