1975年12月のある日(小学校5年生のとき)、入浴前に短波ラジオを聞いていて(National RQ-448)、全く偶然に「こちらは北京放送局です」というIDを聞いて大変驚いた。まさか日本で外国の放送が聞こえるということは夢にも思わなかったからである。この出来事と、それと前後して学校の図書室で読んだ、多分「子供の科学」か何かだったかと思うが「ラジオを聞いてカードをもらおう」という記事に刺激を受けて、私のBCLライフはまさに始まった。折しもこの年は日本に一大BCLブームが起こった年であり、後に手に入れることになる名機ソニースカイセンサー5900もこの年に出荷されたのである。
さてBCLをスタートしたとはいえ最初の頃はそれほど熱心ではなかった。それは何も知識がなく世の中にはどんな局があって、いつどの周波数に合わせればよいのかということも全く知らなかったからである。したがってしばらくは偶然に頼る受信というのがほとんどであり「へえー。こんな放送局があるんだ。」という感じであった。今はなきサンフランシスコのKGEIなどもまさにこのパターンである。また受信機も上記のようなたまたまラジカセに短波がついていたという程度のものであって、当然周波数読み取りも大雑把にしかできなかったし、長く手探りの状態が続いた。
そんな中で迎えた転機は、BCLの指南書との出会いであり、上記のスカイセンサーを手に入れたことである。指南書は誠文堂新光社より発行された「最新世界の放送局ガイド」であり、また後には定期購読することになる月刊「短波」そしてそれに続く日本BCL連盟への入会である。スカイセンサーは10kHzを直読できる「待ち受け受信」を可能にしたことがウリの機種であり、それまでのダイヤルを恐る恐る回すスタイルから一新した。これらによりそれまで手探りで行っていたBCLを確かな道標を持って進めていくことができるようになり、当然アクティビティやスキルは飛躍的に向上していった。
小学校6年の時には日本語放送は大体制覇したが、次に待ち受けていたのは「語学」の壁であった。日本語放送をやっていたのは当時でも17ヶ国ぐらいだったと記憶しているが、いずれにしても世界の放送という中でのわずか一部に過ぎない。このままでは俺のBCLライフは終わりじゃないか・・・そんなことで悩んでやる気をなくし、スランプに陥った時期があった。しかし、結果的にそれは杞憂に過ぎなかった。実際英語を本当に理解できるBCLなんて世の中のほんの一部に過ぎないし、その他大勢はただ単に「IDが確認できる」レベルの語学力に過ぎないことにすぐに気づいたからである。IDなんてパターンさえ覚えてしまえば英語のみならずドイツ語、フランス語、スペイン語、ロシア語、中国語、韓国語、インドネシア語、アラビア語に至るまで簡単だったのである。そして間もなくスランプを乗り越えて、アクティビティは著しく上がっていったのである。